学生懸賞論文集 第42号
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70■■そもそも、なぜ、犯人に対する犯人蔵匿・隠避罪ないし犯人蔵匿・隠避教唆罪の成否について期待可能性の存否を中心とする解決が図られたのであろうか。この点について、瀧川博士は、昭和■年判決が、犯人による自己蔵匿・隠避行為が「防御の自由」を根拠として不可罰とされていることを批判し、「自己隱避は決して防禦の自由に屬するものではなく、立派な違法行為である。たゞ犯人に逃げ隱れてはならない、といふたところで無理だといふだけの理由で、責任を負はさいのである。」とされた(瀧川(■■■■)■■■−■■■頁)。瀧川博士は、判例が違法性論から犯人の自己蔵匿・隠避行為の不可罰性を導こうとしていたのに対し、本行為は違法な行為であるから、違法性論からの解決を避けた上で、期待可能性という責任論から議論を再構成したと考えられる。■■平野(■■■■)■■■−■■■頁、堀内(■■■■)■■■頁、橋本(■■■■)■■■頁、西田・橋爪(■■■■)■■■頁、日■■なお、犯人による正犯(自己蔵匿・隠避)行為と共犯(自己蔵匿・隠避教唆)行為に、「本質的な差異」がないとするもの(川端(■■■■)■■■頁、川端・曽根(■■■■)■■■頁)や犯人という身分により作用する責任阻却事由を正犯の場合と共犯の場合で区別する必要がないとするもの(谷口(■■■■)■■頁)もみられる。■■香川(■■■■)■■頁、内田(■■■■)■■■頁、中森(■■■■)■■■頁、松本(■■■■)■■頁。■■山口(■■■■)■■■頁、井田(■■■■)■■■−■■■頁、高橋(■■■■b)■■■−■■■頁、山中(■■■■)■■■頁、大塚(■■■■)■■■頁。しかしながら、「因果的共犯論全体が否定説を支持することになるか」については疑問がある。例えば、高橋博士及び松本准教授によれば、純粋に否定説が導かれるのは、因果的共犯論においても、「純粋惹起説」及び「混合惹起説」のみであり、「修正惹起説」については、必ずしも否定説となるとは言い切れないことになる(高橋(■■■■)■■頁、松本(■■■■)■■頁)。前述のとおり、学説の多くは、犯人による正犯行為(自己蔵匿・隠避行為)が不可罰である直接的な理由ないしその根底には、期待可能性の不存在があると解している。否定説は、上記のように、犯人が正犯として期待可能性が存在しないとするのであれば、共犯としても期待可能性が存在しないと説明するのである。このような説明の前提には「共犯は正犯よりも軽い犯罪形式である」とするものが多いが■■、上記の共犯理解については学説において、いくつかの疑問や批判がみられるところである■■。しかしながら、このように従来から存在した「共犯は正犯よりも軽い犯罪形式であるから、正犯における期待可能性の不存在は共犯にも妥当する」とする説明については、近時、多くの研究者が共犯の処罰根拠論、とりわけ因果的共犯論(惹起説)と交えて、本説明を再構成しているのである■■。そして、このような立場に立つ研究者の多くは、「因果的共犯論において、正犯の違法性と共犯の違法性は同一のもの」と解するため、正犯として期待可能性が不存在であれば、共犯としても期待可能性が不存在ということになり、否定説が導かれると説明する。また、同様の立場において、因果的共犯論は、共同正犯、教唆犯、幇助犯を広義の共犯として捉えられるため、犯人に対する犯人蔵匿・隠避罪の共同正犯が成立しない以上、共同正犯と髙(■■■■)■■■頁、浅田(■■■■b)■■■頁、大塚(■■■■)■■■頁、山口(■■■■)■■■頁ほか。学生懸賞論文集第■■号

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