71■■松原(■■■■)■■■−■■■頁。なお、犯人自身が他人と協力して行う犯人蔵匿・隠避行為は、犯人の単独自己蔵匿・隠避行為と異なり違法性が重いとして、「犯人自身でないこと」を消極的身分(違法身分)と解すれば、犯人を「犯人ではない他人」の身分に加功した者として、刑法■■条■項の適用により、犯人に対する犯人蔵匿・隠避罪の共同正犯が成立するとすることも不可能ではないとする見解がある(井田(■■■■)■■■頁、十河(■■■■)■■頁)。しかし、十河教授は、「ただ、刑法■■条■項は、『他人を通じて構成要件を実現したときにはその罪の共犯の成立が認められる』という共犯の一般原則を規定したものにすぎず、身分犯の共犯について例外的な取り扱いを定めたものではない。したがって、刑法■■条■項を適用するか否かは、具体的な帰結には影響がないといってよい。」とされる(十河(■■■■)■■頁)。■■岡野(■■■■)■■■頁。もっとも、岡野博士が、「因果的共犯論において修正惹起説に立つ立場からは肯定説が導かれる」と理解しているのであれば、前掲注■■における高橋博士及び松本准教授の見解と同様の立場に立つことになる。■■高橋博士は、「期待可能性は違法性の内容に関係づけて、その存否が判断されなければならず、この問題は、共犯の処罰根拠論の射程範囲内の問題である。」とされる(高橋(■■■■b)■■■頁)。しかし、このような高橋博士の意見においても、「なぜ、期待可能性の存否が具体的事案ではなく、違法性の内容に関係付けて判断されなければならないのか」については言及がされていない。同じ広義の共犯である教唆犯も成立しないとする説明もある■■。このように、現在では、共犯の処罰根拠を基調とする否定説の見解が多いと考えられる。だが、このような見解に対し、岡野博士は、「因果共犯論を徹底させれば、積極説を採ることも可能である。」として因果的共犯論と肯定説の関係を論じた上で、「この問題を共犯の処罰根拠と結びつけて論ずるのは適切でないといえる。」として、上記のような否定説の見解を批判された■■。また、このような見解においては「なぜ、共犯の処罰根拠論が、責任論である期待可能性の存否に影響を及ぼすといえるのか」について言及が少なく、この点については、今後、更なる分析・検討が必要となるように思われる■■。つぎに、肯定説の見解について紹介する。肯定説は、犯人が他人を教唆して自己を蔵匿・隠避させた場合には、原則として期待可能性が存在するため、犯人に対しては犯人蔵匿・隠避教唆罪が成立すると説明する。なお、ここで注意すべき点として、肯定説における「期待可能性の捉え方」の問題がある。すなわち、前述のとおり否定説支持者は、犯人が他人を教唆して自己を蔵匿・隠避させた場合には、必ず期待可能性が存在しないとしたのに対して、肯定説支持者の多くは、このような場合には、必ず期待可能性が存在すると説明したわけではなく、あくまで、否定説における「必然的(定型的)な期待可能性の不存在」を否定したにすぎないのである。この点について、例えば、団藤博士は、犯人に対する犯人蔵匿・隠避教唆罪の成否に関する一考察−学説・判例における見解及び状況等の整理を中心として−
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