学生懸賞論文集 第42号
95/108

88■■前章(第■章)第■節第■款における岡野博士の批判及び前掲注■■を参照。者を処罰することによって対応し得るものであり、法益侵害性の高まりから犯人を教唆犯として処罰すべきことが直ちに導かれるわけではない。」として、本見解に対する批判を展開した。さらに、本意見は、上記のような法益侵害の高まり等を理由・根拠とする肯定説について、「正犯としてではなく、教唆者としては犯人を処罰の対象とし得ると解することは、『正犯としては処罰できないが、教唆犯としては処罰できる』ことを認めるものであり、この背後には、『正犯は罪を犯したことを理由として処罰され、教唆犯は犯罪者を生み出したことを理由として処罰される。』といういわゆる責任共犯論の考え方が含まれ、犯罪の成否を左右する極めて重要な意義がそれに与えられているように思われる。」と考察した。すなわち、山口意見は、学説における肯定説のすべての見解は、共犯の処罰根拠論における責任共犯説を基盤とした理論構成がなされていると考察した。つぎに、山口意見は、このような責任共犯説ないしこれを基盤として構成された肯定説について、「他人を巻き込んだことを独自の犯罪性として捉え、正犯と教唆犯とで犯罪としての性格に重要な差異を認めるものであり、相当な理解とはいえないであろう。」と批判したのである。このような批判は、前述の谷口意見や平成■年大阪地裁判決においても見られるところであり、判例における否定的見解は一致していると考えられる。このように責任共犯説を批判する理由について、山口意見は、「正犯も教唆犯も、犯罪結果(法益侵害)と因果性を持つがゆえに処罰されるという意味で同質の犯罪であると解されるからである。」と説明した。また、本意見は、「正犯が処罰されないのに、それよりも因果性が間接的で弱く、それゆえ犯罪性が相対的に軽い関与形態である教唆犯は処罰されると解するのは背理であるといわざるを得ない。」として、犯人に対する犯人蔵匿・隠避教唆罪の成立を否定したのである。そして、上記のような山口意見における共犯理解は、共犯の処罰論における因果的共犯論の立場に酷似しており、本意見も平成■年大阪地裁判決と同様に、因果的共犯論の立場から責任共犯説を基調とする判例の立場を批判したものと考えられる。もっとも、前章(第■章)第■節第■款における指摘のとおり■■、「因果的共犯論学生懸賞論文集第■■号

元のページ  ../index.html#95

このブックを見る