Creation-161号
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 松山大学の前身である松山高等商業学校は、大正12(1923)年2月、財団法人の寄附行為認可を受けて、同年の4月25日に開校した。当初は、本館建設中のために隣接する北予中学校で間借り授業を行っていたが、大正13(1924)年4月に晴れて本館が落成。松山初の鉄筋コンクリート造の新校舎は瀟洒な建物として注目を集めた。同年10月10日には記念すべき開校式が行われている。 本学の設立は、当時、北予中学(現県立松山北高等学校)校長であった加藤彰廉先生が、加藤恒忠松山市長に提案。加藤恒忠松山市長は、文部省との設置折衝に力を尽くしながら、友人であり、実業家として成功を収めていた新田長次郎翁に設立資金の支援を依頼。新田翁が巨額の私財を投じて実現した。 初代校長には加藤彰廉先生が就任し、第1回の卒業式において「真実」「忠実」「実用」の三実主義を提唱。これが校訓となり、その精神は現代へと受け継がれている。三恩人の生きた時代とその思い 松山市山西町出身。20歳にして志をたて大阪に旅立ち、10余年の歳月を経て日本初の動力伝動ベルトの制作に着手。至難とされた帯革製造の業の確立を始め、膠・ゼラチン、ベニヤの製造も手掛けるなど日本の産業発展に多大な貢献を果たした。青少年を愛し、学問を愛した温山翁は、高等商業学校設立の提案に賛同。設立に際しては「学校運営に関わらない」ことを条件に、設立資金としては巨額の私財を投じ、我が国の私立商業高等学校としては第3番目となる松山高等商業学校(本学の前身)を創設した。本学園では「学園創設の父」として、その功績が今日に伝承されている。新田長次郎(温山)翁(1857〜1936)巨額の私財を投じながらも学校運営には一切関わらなかった「学園創設の父」 松山藩の儒学者であった大原有恒(観山)の三男として生まれ、松山が生んだ偉大な俳人・正岡子規の叔父にあたる人物。幼くして儒学に親しみ、フランス留学を経て外務省に入省。外務大臣秘書官・大使・公使を歴任後、衆議院議員・貴族院議員に選任された。後年、松山市長への就任を要請されて、第5代市長となる。北予中学校・加藤彰廉校長からの高等商業学校設立の提案に理解を示し、文部省との設置折衝に尽力。同時に友人であった新田長次郎(温山)翁に設立資金の支援を依頼するなど、設立運動の中心的な推進役として松山高等商業学校創設に多大な貢献を果たした。加藤恒忠(拓川)翁(1859〜1923)文部省との設置折衝に尽力し温山翁に設立資金の支援を依頼した設立運動の中心的な推進役 松山藩士宮城正脩の二男として生まれ、東京帝国大学文学部(現東京大学)に学び、西欧の新思潮を身につけた。卒業後は文部省、大蔵省在任の後に教育界へ。山口高等中学校長を経て大阪高等商業学校長となった。晩年、要請されて北予中学(現県立松山北高等学校)校長に就任し、高等商業学校設立をいち早く加藤恒忠松山市長に提案するなど設立運動に尽力した。松山高等商業学校創設に際しては初代校長に就任。第1回卒業式において「真実・忠実・実用」を説いた訓示は校訓「三実主義」として確立。人間形成の伝統原理として今日に受け継がれている。加藤彰廉先生(1861〜1933)初代校長として「真実・忠実・実用」を説き校訓「三実主義」を確立三恩人の思いが創りあげた松山大学の前身松山高等商業学校新田長次郎(温山)翁、加藤恒忠(拓川)翁、加藤彰廉先生。この三人の人物の尽力なくしては成し得なかった松山大学の創設。そこで三恩人とはどのような人物なのか、そしてどのような時代を生きたのかを紹介する。

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