Creation-169号
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志立大学 1893年、シカゴで世界大博覧会が開催され、この博覧会に翁は製品を出品し自ら最初の海外視察に出かけます。翁は米国から英国に渡ります。そしてロンドンからパリに向かう折りに三井物産の長谷川銈五郎からパリの日本公使館代理公使・加藤恒忠宛ての紹介状を頂きます。公使館で恒忠から会話中に「松山のお人ではないか」と尋ねられ、2人が同郷であることを知ります。パリ万博(1900年)が開催されると、ここにも動力伝導用革ベルトを出品します。万博にあわせて翁は再び海外視察に出ます。海外で産業調査や機械、原料を購入して製品改良に役立てます。翁は工業用革製品を輸入から国産品に産業界の需要を切り替え、国益の増進に寄与したことに誇りをもっていました。事業の多角化にも熱心で、膠、ゼラチン、植林、牧場、ベニヤの諸事業に進出しました。 翁は、事業の基本は発明改良にあり、発明改良で国家社会に貢献するという考えでした。優れた製品をつくれば事業は栄え、お金が入りますが、それは公共のために使うものとしました。事実、大阪で貧しい子供らのために有隣小学校をつくって運営しました。故郷の松山高商創設では多額の資金を提供し、味生小学校にも建築資金を出します。また國學院顧問、(財)理化学研究所設立発起人にもなりました。翁の少年時代の教育環境が、のちに教育を通して社会を良くしたいとの思いに駆られたと考えられます。本学には、新田家は唯資金を提供して社会と郷里に奉仕することをもって満足すべきで、如何なる意味においてもこれを自己の利益又は名誉に利用してはならないとの立場を貫きました。校名にも新田の名を使わないことを条件に学校に一任します。企業家として日本経済の発展に貢献する一方、何ら見返りを求めることなく、教育においては質の高い実践的人材の養成を教職員に託します。この人材養成に努力されたのが加藤彰廉先生でした。の臨時産業調査委員や帝国発明協会から発明功績者として表彰され、工業用ベルトの開発で日本の産業発展に寄与した人物です。 翁は温泉郡味生村山西の農家に生まれます。幼少期に修学の機会が少なく、10代の頃に福沢諭吉の﹃学問のすすめ﹄を読み、松山でコロンブスのアメリカ大陸発見の講演を聞いたことが才気煥発な翁の世界観を大きく広げ、わが国に未だない新しい事業に進出して世界に躍り出ようとの夢を抱きます。企業家となった翁は諭吉翁を絵にして額に入れ、朝な夕な尊敬の気持ちを表しました。 翁はある時ドイツ人製革技師から製革事業の隆盛が、その国の隆盛を占うと教わります。翁は1888年、日本で最初に動力伝導用革ベルトを生産し、大阪紡績会社に導入されます。同社は1万500錘の蒸気力を用いた大規模工場で、当時、泉州、尼崎、鐘淵、倉敷などの紡績会社設立が相次ぎ、これらの工場の範となっていました。んでいる大学を知り、本学学生としての誇りや連帯感、帰属意識をもっていただきたいと思います。 松山高商の創設に貢献した新田長次郎(1857年~1936年)、加かとうつねただ藤恒忠(1859年~1923年)、加藤彰廉(1861年~1933年)を「建学の三恩人」と称します。創設時の理事井上要は「松山高商は新田君を父とし、彰廉君を母としてそれに最も練達(れんたつ)にして親切なる恒忠君が産婆役となり三人の合作で目出度呱々の声をあげた」と語っています。新田長次郎(以下翁)とは「東洋の皮革王」で現ニッタ株式会社の創業者であり、政府 私立(志立)大学の創設者とその後継者たちは建学の精神、教育理念を教育に託して社会に有為の人材養成に心血を注ぎました。松山大学は松山高等商業学校(以下松山高商)を前身とし、戦後、新制大学に昇格して松山商科大学となり今日に至ります。大学となっても加かとうあきかど藤彰廉先生が高唱された「校訓三実」の精神は継承され、これを大学建学の精神としてみることができます。松山高商創設から九十年、学祖・新にった田長ちょうじ次郎ろう 生誕百五十五年を迎えようとする節目にあたり、自分が学文:経営学部長・  経営学研究科長  平田 桂一松山大学建学の三恩人2度にわたる海外視察、少年期の夢の実現新田長次郎の事業観、投機や荒稼ぎを最も嫌う企業家新田長次郎の生い立ち翁の座右の銘は「独立自尊」。翁の揮毫による「独立自尊」の書が本学会議室に掲げられています。History of Matsuyama Universityof 90 years〜松山大学の九十年〜事業の成功を未来へ投資した企業家『新田 長次郎』その1CREATION 〈No.169〉 2011 Spring14

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