Creation-170号
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History of Matsuyama Universityof 90 years志立大学は難しく羯南は故郷弘前に帰ります。恒忠は羯南を徒歩で大風雨のなか千住まで見送り、大橋の上で手を握って別れました。司馬遼太郎は恒忠を「人とつきあうために人の世に生まれたのではないか」と評し、「忠恕」の人と言います。原、羯南、青崖、日南ら法学校の退学組みこそ明治大正史にその名を留めています。この頃の恒忠は新聞記者、代議士、そして最後に大臣になる考えを抱いてました。 さて恒忠は中江兆民の仏学塾に学び、久松定謨のフランス遊学に同行します。1884年にパリ法科大学に進んだ翌年に原が外務書記官としてパリ公使館に着任します。その後、パリ公使館に田島が着任し、奇しくも法学校時代の仲間3人が揃いました。恒忠は原の世話で公使館書記生となり、交際官試補、外務参事官、外務大臣秘書官を経て、再び1892年フランス公使館に赴任します。新田長次郎との出会いもこの頃です。恒忠は39歳の時に外交官石井菊次郎の妻の姉樫村ヒサと結婚します。恒忠は特命全権公使やスペイン皇帝結婚式の特使となりました。1906年に第2回万国赤十字条約改正会議に日本全権として条約調印に臨みますが、この調印は伊藤博文の逆鱗に触れ、恒忠は外交から身を退き、政界へ進みます。 原敬内閣はパリ講和会議(1918年)の全権委員に西園寺公望、牧野伸顕、珍田捨己ら5人を決めます。恒忠は大変親しい西園寺の側近として随行し、彼を助けました。 郷里に帰った恒忠は、松山市長(1922年)に就任し、松山高商設立に奔走します。ただ高商開校を前に逝去しますが、外交官時代の「自分は郷里のために何事も貢献することは出来ないが青年教育のためには尽くしたい」との思いは叶いました。 「奇抜な逸材」として夙に有名だった恒忠は我が国政治・外交史上に足跡を残せたはずの人物ですが、出世には淡白だったようです。恒忠の豪放磊落で機知に富んだ性格は多くの人々に愛されました。 当時、学校の寄宿舎で賄い征伐が流行り、法学校でも寮の食事で賄い人と対立し恒忠も関わっていました。寮の食事は比較的贅沢でしたが、学生の間で不満がつのります。寄宿生はある晩、賄い人とご飯のことで争い、賄い人が舎監に訴えたため、舎監は20名の学生を2週間の禁足処分にしました。校長は反省すれば禁足を解くつもりでしたが、恒忠らは、処分は心服できないと言ったため、校長は怒って恒忠、秋月、日南ら4人を、夜中に寄宿舎から追い出し保証人預けとしました。これを知った原は校長の暴挙に怒り、処分取り消しを求めますが埒があかず、大木司法卿に陳情書を渡します。司法卿は校長に学生のことだから穏便な処置をとるように訓示します。面目をつぶされた校長は予科三年の春季大試験後、恒忠、原、羯南、青崖、日南ら16名に突然、退学を命じます。退学した恒忠、原、羯南、青崖らは将来を案じながらも、天下を取る、と意気軒昂でした。とはいえ就職島彦四郎らがいました。フランス法学中心の学校は修業年限8年(予科4年)、学位「法律学士」を出す高等教育機関で、司法官養成を目指しました。学生は官費生で卒業後15年間は司法省の指令による奉職義務がありました。政府は同校に大きな期待を寄せ、年4回の大試験には司法卿、司法大輔が臨席しました。1877年2月の第1期考科表では恒忠の成績は101名中88番でした。 この法学校時代、休みを利用して恒忠は羯南、青崖、日南と鉄道で横浜まで出て、ここから徒歩で浴衣の裾をからげ、草鞋穿きで、怒鳴りあいながら富士登山をしています。 大原観山を父とする大原恒忠は、のちに加藤家の養子になります。18歳の頃、恒忠は全国から俊秀が集まる司法省法学校を受験し合格します。入学者の中に原敬、陸羯南、秋月左都夫、国分青崖、福本日南、田文:経営学部長  経営学研究科長  平田 桂一司法省法学校に入学「忠恕」の恒忠法学校を追われる外交官時代の郷里への思い若き日の恒忠(左)。陸羯南(中央)、国分青崖(右)と共に(青森県近代文学館 オフィシャルサイトより)〜松山大学の九十年〜青年・外交官時代の足跡をたどって『加藤 恒忠』その2CREATION 〈No.170〉 2011 Summer9

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