Creation-170号
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遺伝子ノックアウト・マウス中間表現型と精神疾患の解明神経幹細胞の増殖・分化を制御し、精神疾患発症の鍵を握る BRINP遺伝子の発見  脳はヒトの「人間らしさ」を担っていると考えられていますが、脳神経系には未解明の部分が多く残されています。脳内には何十億という神経細胞があり、それぞれが個性を持って神経回路の複雑なネットワークをつくっています。脳から取り出した神経細胞を培養すると、細胞は神経繊維を伸ばして互いにシナプスという部分で連結され、ネットワークを作る様子が観察できます。神経細胞が興奮するとアセチルコリンやドパミンなどの伝達物質を放出し、シナプスを介した隣の神経細胞に刺激が伝わります。神経回路の中である神経細胞はアセチルコリンを、別の細胞はドパミンを分泌するのはなぜか、などに興味を覚え研究を始めました。 人体の様々な組織では幹細胞の増殖と分化によって生まれた新しい組織細胞が、古くからの細胞を置き換えています。しかし神経幹細胞から分化した神経細胞はもはや細胞分裂によって増えることはありません。神経細胞が不用意に増殖すると、周囲の神経回路を変化させて蓄積されていた記憶などの機能を失ってしまうからと考えられています。ヒトの胎児期の後半から新生児期を経て幼児期までは、神経幹細胞の増殖・分化と神経回路の形成が一斉に起こる時期です。そしてこの時期における何らかの異常により、幹細胞が分化できずに増殖を続けて脳腫瘍が生じることがあります。一方、神経回路の形成の微妙な異常などを検出することはとても難しいことです。 分化過程で神経細胞がどのように個性を獲得するのか?神経細胞の増殖を抑制している仕組みは?という問題意識を持って、幹細胞が神経細胞に分化する際に現れる遺伝子を探したところ、細胞分裂を抑制する能力を持つBRINP1遺伝子を発見しました。これは続けて見つけた他の2つの遺伝子と共に、全く新しいタンパク質のグループを構成する遺伝子でした。 神経細胞は、ヒトが死ぬまで長く働き続ける丈夫な細胞ですが、興奮しすぎると疲れて死んでしまうので細胞を保護する仕組みを持っています。人工的にマウスの脳全体を過剰に興奮させると、記憶や学習などの働きを担う海馬という領域にBRINP1が強く誘導されることがわかりました。次にBRINP1遺伝子を失わせたマウスを作り出して、その性質や組織の異常、いわゆる「表現型の変化」を調べました。このBRINP1遺伝子ノックアウトマウスは、一見すると普通のマウスですが、脳の興奮によって海馬の神経細胞が死にやすくなり、また、海馬での神経細胞の新生が増加して未成熟な神経細胞が増えていました。これらから、BRINP1遺伝子は、神経細胞の増殖を抑制して神経回路への組み込みや成熟を促進する、神経細胞の過興奮から細胞を保護するなどの機能を持つことがわかりました。 一方、BRINP1のノックアウトマウスの行動をよく観察してみると、運動量が増加していました。また、集中力や忍耐力がなく、他のマウスに対する関心をほとんど示さないという性質も観察されました。この多動性と集中力・社会性の欠如という「症状」を精神科医が判断すれば、統合失調症(注1)やADHD(注意欠陥性多動障害、注2)に似ると診断しそうです。こうして、BRINP1遺伝子は、神経(幹)細胞の増殖・分化を調節すると共に、神経回路の形成やその延長線上にある個体行動の変化にも関係することが示唆されました。 精神疾患は、心理的あるいは行動的な変調をもとに診断される病気です。しかし、目の前の患者さんをどのような根拠で精神疾患と見なすかは、とても難しいのです。例えば、教室内で動き回る子供を見て、日本では「親のしつけが悪い」と見なすことが多いですが、フランス脳・神経系の発達・機能発現機構を解明して医療への応用を目指すBRINP発見までの道のり薬学部教授 理学博士 松岡 一郎 Matsuoka IchiroCREATION 〈No.170〉 2011 Summer3

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