Creation-171号
16/24

History of Matsuyama Universityof 90 years志立大学を皮切りに、以後英国、米国、独国の大学に教員を留学させます。また学生の人格形成に部活動とフェアプレーを重んじられました。松山高商健児が、一躍全国に知られるのが瀬戸内海横断遊泳(1925年7月)の成功でした。水泳部は入念な計画のもと、三津浜から柳井(山口県)までの瀬戸内海横断遊泳(70哩)を決行し、彰廉先生は小舟に乗って学生を激励されます。 先生は第一回卒業式(1926年3月)で校訓として真実(Truthful)・実用(Useful)・忠実(Faithful)の三実主義を宣します。これをスリー・フルズと言われたそうです。あの格調高き松山高商、松山商大校歌に「校訓三実、我が身に体して」と謳われ、学生、教職員の精神的支柱になります。第二代学長・星野通先生は、この三実の徳目こそが本学の人材輩出の原動力だったと述べています。先輩諸氏が社会で信用され、有能な職業人としての高い評価を得たのも三実主義を体化したからにほかなりません。私立大学は建学の精神、教育理念に基づき教育を行ってきました。「志立大学」といわれる所以です。彰廉先生は北予中学と高商校長兼務時代に教育の趣旨として「知識(広く天地に知識を求め知識を磨くこと)」「実用的有益(実際的人物を作ること)」「忠実(社会的、交友的親和心を養うこと)」を挙げられています。これが校訓三実の元になっていたと考えられます。 同窓会組織「温山会」の名付け親で、初代会長の先生は卒業生や学生を大事にされました。「校長は夜も昼も精神は学校にある」を心情とされた先生でしたが、1933年に永遠の眠りにつかれました。多くの人に「伊予の福沢翁」逝くと惜しまれました。学園の基礎を固められた先生の功績を偲び、胸像の建立や加藤会館の建設計画が始まります。会館の設計は新田長次郎の娘婿で「赤十字勲功十字賞」(独政府)などを授与された建築家・木子七郎です。代校長に就任されます。先生を校長にすべく運動したのが加藤恒忠、新田長次郎、秋山好古らでした。 さて国内は中等教育の普及で高等教育機関への進学熱が高まります。また産業の発展や世界経済の中で日本の地位向上に高等教育・実業教育の振興が重要視されます。加藤恒忠の刎頸の友、原敬が総理大臣となり、原内閣は高等諸学校の拡充計画を打ち出します。  松山高等商業学校が愛媛県内の期待に応えて誕生すると、彰廉先生が初代校長になられます。第一回入学式後の最初の授業で先生は、実業家は常識や経済学の知識だけでなく、心理学、哲学の知識や健康や徳義を守ることも必要。誘惑に勝つ意志も必要だ、と説いて、「これら全てを備えた人間を養成する」と松山高商の方針と抱負を語られました。 先生は優秀教員の充実を目指され、1923年に古川先生尋常中学校長、市立大阪商業学校長・市立大阪高等商業学校長(現・大阪市立大学)として教育界で活躍されます。広島尋常中学校時代に我が国の発展に商業と実業教育が不可欠との考えをもたれます。大阪の校長時代には大阪商業会議所の特別会員・議員に就任されています。大阪高商での人望は厚く、卒業生らに推されて衆議院選挙に立候補され、1915年に衆議院議員となります。帝国議会では理化学研究所設置に関する建議案を提出しています。その後、松山の北予中学(現県立松山北高等学校)第3 加藤彰廉先生は宮城正脩の次男で1861年江戸の生まれです。幼少時から言葉少なく、挨拶したら後は黙っているので、親戚では扱いに困ったそうです。6歳の頃松山へ移り、数年後に加藤家に入籍します。養父の彰は松山藩士族で同士らと国立銀行設立を計画し、大蔵省から認可を得て第五十二国立銀行を設立、同行の二代目頭取に就きます。 彰廉先生は東京大学文学部卒業、文部省、大蔵省を経たのち山口高等中学校教諭、広島文:経営学部長・  経営学研究科長  平田 桂一青年教育に尽力本学の精神的支柱・校訓三実を提唱伊予の福沢翁、倒れる水泳部(大正14年)山口県熊毛郡黒島海岸前列5名が選手、中央亀岡主将、その後ろ加藤彰廉先生(瀬戸内海横断遠泳の壮挙)〜松山大学の九十年〜沈思寡言の教育者『加藤 彰廉』その3CREATION 〈No.171〉 2011 Autumn15

元のページ  ../index.html#16

このブックを見る