Creation-173号
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History of Matsuyama Universityof 90 years志立大学現在と変わりません。 高商は幾度か定員を増やしてきましたが、1940年に1学年150名から200名に50名増やし、総定員を600名とします。1学年200名を4組に分け、3組は「第一部」、残る1組はアジアで活躍する人材養成をめざして「第二部」、東亜科を新設しました。 学校正面の草むらに寝転び雲の流れを追ったり、柔道部員や剣道部員らが練習後に紋付き袴姿で部歌を高唱し引き揚げていく学園風景に戦争の影が覆ってきます。 1941年文部省は勅令で1942年卒業予定者の卒業を3カ月繰り上げる修業年限短縮措置を制度化します。また文系大学、専門学校の転換・整理・統合をして戦時教育体制を強化します。1943年に文部省は全国官公私立文科系学校の定員半減方針を打ち出し、また高等商業学校は経済専門学校に校名変更を求めます。松山高商は福知山高等商業学校(京都府、定員600名)を吸収合併し、両校合わせて1200名の定員となり、これを半減させて定員600名を確保しました。1944年1月、福知山高商にて田中忠夫校長らが合併交渉に臨みました。福知山校教職員の身柄については一切先方の責任とする、移籍生徒の納入する授業料は全部を福知山側財団に還付するなど、3項目の覚書が交わされました。また2月に文部省に財団法人松山高等商業学校から財団法人松山経済専門学校に改称するとの申請を学則改正とともに提出して、1944年3月31日認可、4月1日から松山経済専門学校になります。同日、福知山高商生約300名の編入学式が挙行されました。 福知山高商生は松山に無縁のため、松山高商生、教職員が下宿の世話に奔走します。学校周辺のお寺も福知山高商生の受け入れに協力してくれました。転入直後の歓迎運動会は、両校学生の連帯感を強めたことは言うまでもありません。337名で、大阪が首位でした。 高商では大蔵大臣、日銀総裁を努めた井上準之助氏の講演、住谷悦治先生に次いで星野通先生が明治民法編纂史の比較研究で文部省から学術振興方策の一つであった精神科学研究奨励金の交付を受けられるなど、学術面も活発でした。 教員陣容も充実し、1938年度からゼミナール制が導入されます。ゼミナールの収容人員は1研究科目15名以内とされ、ゼミナールで研究成果を纏(まと)めた論文を所定の期日までに提出すれば、卒業論文に代えることもできました。ゼミは「商業学、経済学、経済政策、経済史、経済地理、財政学、商品学、統計学、簿記、会計学、商業実務、及び法律学(ただし財産法、取引法等)等高等商業教育に本質的なるもの若しくは実業生活乃至経済生活一般に直接且重要なる関係ある学科」に限定していました。指導方法は教材の輪読、討論、批判、特殊問題の研究調査報告等で、「高商主義」だと紙面上で説かれました。 学校内に校友会が設立され、同会の中に総務部、文芸部、講演部、外国語部、剣道部、柔道部、野球部、庭球部(卓球部を含む)、競技部(相撲、蹴球部を含む)、水泳部、山岳部、端艇部、弓術部があって活躍していました。1930年代は剣道部、柔道部などが全国制覇をして、松山高商は全国的に知れ渡ります。 松山高商の志願者は1000名を超え、1938年度は1205名、受験地別では本校402名、大阪466名、福岡 1925年、松山高商新聞を新聞学会が発刊します。加藤彰廉先生によれば「我高商新聞は東西両京以外に於ては最初の学生新聞であり、大学を除いては恐らく我国に於ける学生新聞の嚆矢」でした。当時の高商新聞からは高商健児、高商魂や高商主義を定着させようとする機運もうかがえます。一柳学俊先生は「松山高商主義」とは一貫して誠実の態度であり、卒業して世に出れば「商売以て公益を計る所の紳士」でなければならない、これこそが文:経営学部教授  平田 桂一松山高商の面目躍如ゼミナール制の導入福知山高等商業学校を吸収合併、松山経済専門学へ授業の合間は本校前の草むらで寝転んで、雲の流れを追った。どんなことを想い描いていたのだろうか。〜松山大学の九十年〜『松山高等商業学校から 松山経済専門学校へ』その5CREATION 〈No.173〉 2012 Spring14

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