Creation-174号
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志立大学円以上の寄付が集まりました。 1948年文部省に「商業、経済を中心とする諸科学の総合的、専門的研究及び教授を行うことを目的とし、学識深く教養高き人材を養成して広く経済文化の発展に寄与することを使命」として松山商科大学設置認可申請書を提出します。新学制転換方針では校地、校舎、図書などは、そのまま新制大学に転用し、教員は教授、助教授、講師に任用し、大学に配置しました。経専生は大学に編入可能とし、編入を希望しない学生のため、1950年度を限りとして経専を存置するとしました。経専は1951年3月に第26回卒業式を挙行して、その役割を終えます。 1949年「松山商科大学商経学部」設置の認可がおりました。少し遅れて松山商科大学短期大学部(商科第2部)が開設されます。商経学部は、1962年4月経済学部、経営学部の2学部に移行します。 学内では日本と世界の政治、経済的関係の進展等から新しい日本人像をいかにして教育活動の中で創造するかが検討され、教育の国際性の必要に着眼し、新学部構想が描かれました。国際社会で活動できる専門的知識と語学力を備えた人材養成の観点から人文学部(1974年)を設置します。その後、1988年に法学部を設置し、法学に関連する基礎的・体系的な知識の習得を第一に、法的思考力の育成をとおして社会の諸現象から法的現象を抽出し、問題を的確に処理する実践的能力を備えた人材養成を教育目標としました。 総合大学化のなか大学院経済学研究科、同経営学研究科を設置して、高等教育機関として確固たる地位を築きます。 学園の実態を踏まえて校名変更も検討され、新校名検討委員会が発足します。そして1989年4月に新法人名「学校法人松山大学」、新校名「松山大学」「松山短期大学」に改称されて、本学は松山大学という第四世代に入りました。 終戦を迎え、校舎は空襲のため、9月から1年生は松前の東洋レーヨンの寄宿舎で勤労奉仕と勉学の日々が11月頃まで続きます。3年生は全員に卒業資格が与えられ、戦争の余塵さめやらぬ中、9月に第21回卒業式が挙行されます。 学校教育法は大学を「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」と規定します。大学は「広く知識を授ける」一般教育、「深く専門の学芸を教授研究」する専門教育研究と、「知的、道徳的及び応用的能力」を育てる機関となります。 学内に大学昇格の気運が高まります。ただ校舎など施設設備の整備に600万円の資金が必要でした。このため教職員による復興昇格委員会と学生の生徒復興昇格委員会が発足します。学生は昇格資金を得るため、オペラ歌手・藤原義江らの音楽会を開きました。関係者の努力は実り、2000万もあります。事態を重く見た田中忠夫校長は校訓三実を1940年の生徒要覧の巻頭に掲げて明記しました。先生は将来を見据え、学校の質を規定する要素として教員構成、教育・研究、就職、課外活動などを重視され、本学を渺(びょう)たる家塾的私学から大きく発展へ導かれた、まさに、中興の祖と称すべき存在です。 戦時下、学生は、勤労動員令で新居浜住友化学、長崎三菱造船所、名古屋愛知航空機などに動員され、学内から学生の姿が消えました。 松山高商から松山経済専門学校、松山商科大学への歩みは、順風満帆ではありません。戦時下、第11師団の将校が、学校は幾つあっても一つの教育勅語で十分だと、公開の席で校訓三実「真実・実用・忠実」を批判しました。 真実とは科学する心であり、実用とは旺盛な実践的態度、そして忠実とは信を以て人と人を結ばんとする清く温かき情誼の精神です。校訓は新田温山翁、加藤校長の人格の縮図で文:経営学部教授  平田 桂一戦時体制下の動き「松山商科大学」の誕生新学部開設と大学名変更1999年に竣工した温山会館は、松山高商時代から松山商科大学時代にかけて多くの学生たちに親しまれた旧本館の面影を偲ばせながら、静かにキャンパスを見守っている。『新制大学 松山商科大学の誕生』その6History of Matsuyama Universityof 90 years〜松山大学の九十年〜17CREATION 〈No.174〉 2012 Summer

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