CREATION_175号
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星野通博士、松山高等商業学校へ星野通博士の研究と『民法典論争資料集』〜松山大学の九十年〜その7『星野通博士(松山商科大学第二代学長)の 民法典論争研究(一)』残る業績を遺した民法学者であることを知らない研究者が博士の名前や業績は、昭和四十員の皆さんの方がご存じかもしれません。また、それより後に卒業された温山会員の方でも、の星野陽教授はご存じのことと思います。民法学界においてさえ、「星野通博士」と聞いても、後世に少なくないでしょう。むしろ、年代までに卒業された温山会博士の御長男である人文学部現在の伊予市出身の星野通博士(明治三十三(一九〇〇)年︱昭和五十一(一九七六)年)は、大正十四(一九二五)年三月に東京帝国大学法学部を卒業し、翌月に新田温山の招聘に応えて創立から二年が経過していた松山高等商業学校(以下「松山高商」と言います)に教授として赴任します。当時東京の有名大学から誘いがあったにもかかわらず松山高商に赴任することを決めた背景には、博士の家族の事情と温山の熱心な説得があったものと考えられます。博士は松山高商赴任後、松山商科大学(以下「松山商大」(Good Practice)推進委員会と言います)時代に至るまで、学務できわめて多忙な身でありながら、明治三十一年民法典施行に至る民法典制定過程について、血の滲にむような研究を進めていくことになります。また、博士は母校への移籍の道も断り、その生涯を本学の発展に捧げ、昭和三十二(一九五七)年四月から昭和三十八(一九六三)年十二月まで、松山商大第二代学長も務めました。法学部は現在、法学部GP(委員長は妹尾克敏教授)を組織し、学内外でこれまで必ずしも十分に顕彰されてこなかった加藤拓川、加藤彰廉および星野通博士等、その生涯のすべてを本学に捧げた人物について検証し、「松山大学で学ぶことの誇り」を学生に持ってもらい、社会に巣立つための前提となる『自分の立ち位置』を発見してほしいと考えています。星野博士の研究テーマは、明      じまでの民法典制定(編纂)過程治三十一年民法典施行に至るの研究です。ご存じのように、現行民法典(明治三十一年民法典)が制定される前に、明治二十三(一八九〇)年に公布された民法典(「旧民法典」とよばれています)がありました。この頃日本の喫緊の課題は、まさに条約改正であり、特に外国人の治外法権の撤廃こそ至上命題でした。それゆえ、とにかく即時に法典を施行し、修正すべき点があれば改正で対応すればよいと考える人たちがいました(「断行派」とよばれています)。しかし他方で、特に旧民法人事編がキリスト教国にならって個人主義的傾向の強いものとなっており、このような法典は日本の慣習や善美風俗に反すると批判し、施行を延期して、時間をかけて法典を修正した上で施行すべきだと主張する人たちもおり(「延期派」とよばれています)、断行派と延期派は、明治二十二(一八八九)年から明治二十五(一八九二)年にかけて大変激しい論争を繰り広げます。これが、高等学校の日本史の教科書に出てくる『民法典論争』です(延期派の穂積八束(宇和島市出身)の「民法出テヽ忠孝亡フ」という論文名をご存じの方も多いことでしょう)。結局この論争は、村田保(貴族院議員)が提出した「民法商法施行延期法律案」が明治二十五年六月十日に成立したことをもって、延期派の勝利に終わり(今年は、論争決着から一二〇年目にあたります)、旧民法は、その後の明治三十一年民法典の公布によって廃止されるのです。星野博士は、この『民法典論争』に関係する論文等を今のように交通の便がよくない、しかも太平洋戦争中の混乱期に大変な苦労をして収集し、整理分析しました。この集大成こそ、博士編著の『民法典論争資料集』(日本評論社、昭和四十四(一九六九)年)です。ただし、この資料集については、今のようにコピー機がない時代に論争関係論文を筆録したものであることから、原典と異なる箇所が多くあります。法学部は現在、あらためて原典と資料集とを照合し、星野博士が目指した正確な資料集に近づけた復刻増補版を来年三月に刊行することにしています。志立大学CREATION 〈No.175〉 2012 Autumn研究中の星野通博士の写真(昭和20年から昭和25年頃に撮影されたもの。博士の御次男である星野不二夫氏所蔵)。星野博士は学生からも大変慕われ、自宅で学生と談笑することもあったという。文:法学部准教授  古屋 壮一15History of Matsuyama Universityof 90 years

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