CREATION_177号
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OB・OGインタビュー大学時代にしかできない冒険旅行卒業後に強く感じた母校との縁松山市役所に勤務する大木さんが松山商科大学(現松山大学)に入学したのは、バブル景気が始まりかけた頃。「景気も上向きだった時代で、将来は起業するのもいいなと軽い考えで経営学部を選びました。ゼミの先生が今の学長だったのですが、なかなか厳しくて(笑)。勉強が足りない、とよく怒られました」と当時を振り返る。実家通学でありながら、家で食事をした記憶がほとんどないほどアルバイトに明け暮れた学生時代。お金が貯まると全額握りしめて旅行していたという。あるときには荷物の積み降ろしを手伝うことを条件に、長距離運転手である知人のトレーラーに同乗。約20日への異動辞令が。「初めて松間かけて青森へ、さらに青函連絡船に乗って札幌の雪まつりへ行ったこともあった。その道中で見聞し、体験したことすべてがいい思い出だと語る。地元就職を希望して松山市役所を選んだにも関わらず、2009年に東京事務所山を離れ、右も左もわからない自分を助けてくれたのが、松山大学東京オフィス(MTO)や温山会東京支部のみなさんでした。東京事務所でのイベントにも大変ご協力をいただき、今も感謝の気持ちでいっぱいです」。さまざまな業界で活躍する先輩たち、向上心に満ちあふれた後輩たちに大きな影響を受けた大木さんは、昨年3月に松山へ戻った。現在は、学生による政策論文募集や事業を担当している。松山大学の社同しながら、いろいろな活動に取り始めるという。どんな新しい企画でに期待される。大学連携などの会連携室とも協組むなか、4月からは松山大学の新入学生を巻き込んだ新事業も街を盛り上げてくれるのか、大い後輩へのアドバイス学生だからこそ、できるだけ正しくきれいな文章で書かれた本を読んで、自分なりの表現力を培ってほしい。そうすることでインターネットで収集した情報のツギハギではなく、自分のことばで文章を書く力が身につき、将来絶対に役に立つと思います。※記載している役職名等は取材時のものです。学生時代プレイバック|1985.4〜1989.3社会1515Ooki Takafumi(1989年3月 経営学部経営学科卒)◦日本電信電話・日本たばこ産業の新会社スタート、日航ジャンボ機群馬県御巣鷹山に墜落、男女雇用機会均等法施行、青函トンネル開通・連絡船廃止、瀬戸大橋開通、昭和天皇崩御、皇太子明仁親王殿下即位・新年号「平成」に決定 ほか◦ソビエト連邦ゴルバチョフ書記長就任、ドル高是正のためのプラザ合意、ソ連チェルノブイリで原発大事故 ほか学内◦「御幸キャンパス」第1期工事完成・落成式、「南溟寮」解体・跡地に法学部校舎(7号館)竣工、法学部開設、新校名「松山大学」「松山短期大学」に変更することを文部省に申請 ほか     大学時代の経験と出会いすべてが現在の自分にとって大きな力となっている松山市総合政策部企画政策課副主幹大木 隆史さん

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