CREATION_177号
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立り志し伝でを体現した実業家リベラリスト学識豊かなジェントルマン学校の設立に私財を投じた新田長次郎は、「学園創設の父」と呼ばれている。長次郎は1857(安政4)年、松山市山西の農家に生まれた。勉強熱心で理数系を得意としたが、次男坊のため兄を助けて家計を支えなければならなかった。二十歳の時、意を決して家出同然に大阪へ出る。そこで西洋から入ってきたばかりの皮ひ革かく業に出会った。もともと手先が器用で、創意工夫が得意だったことから、めきめき職人として頭角を表すようになる。やがて独立して革なめし工場を木き子ご七しち郎ろうは長次郎の娘婿である。興した。その後持ち前の才覚により工業用革ベルトの国産化に成功して、この分野では他社の追随を許さないまでに事業を発展させた。明治26年に欧米諸国を視察し、皮革業の機械化や経営の合理化などを取り入れた。長次郎の工業用革ベルトは、紡績業や水力発電所などにも利用され、日本の産業界に多大な貢献を果たしたのである。福沢諭吉を敬愛していた長次郎は、事業で得た利益を未来を担う子どもの教育へ還元した。大阪に貧しい家庭の子弟でも学べる学校を作り、手厚く支援した。そんな折、フランスで知ち己きとなり同郷ということで意気投合した加藤恒忠から、地元にできる実業専門教育機関の設立資金の援助を要請される。青少年の教育に関心の高い長次郎は直ちに賛成し、私財から用地買収、校舎建築、備品購入までの全部を用立てた。ここに松山高等商業学校(現松山大学)が誕生する。さらには、毎年の経常費、教授洋行費も含めて学校経営にかかる費用も負担したが、学校運営には一切口を出さなかったという。余談だが、陸軍大将の秋山好古を、松山の私立中学校の校長にと口説き落としたのも長次郎だ。また、近代洋風建築の名作である愛媛県庁や萬ばん翠すい荘そうなどを設計した学校設立運動の中心となり、良き仲介役を果たしたのが、加藤恒忠である。1859(安政6)年、松山の儒学者大おお原はら観かん山ざんの三男に生まれた恒忠は、子規の叔父であり、秋山好古とは竹馬の友だった。司法省法学校(現・東大法学部)で出会った陸くが羯かつ南なん(新聞加藤彰廉は初代校長で、学校設立を加藤恒忠に進言した人物である。1861(文久元)年生まれの彰廉は、東京帝国大学卒業、中央省庁で勤務した後、教育界に身を投「日本」の創設者)に子規を託したことから、子規は羯南に支えられて才能を花開かせたといっても過言ではない。恒忠は法学校で薩摩出身の校長と対立して退学処分となり、中江兆民の私塾に入った。終生リベラリストであった素地は兆民の元で培われたものだろう。その後、フランス留学を経て外交官、国会議員などを歴任。権力にこびない公明正大な態度は、終始一貫していた。大正11年、地元の要請により食道癌を患いながらも、松山市長に就任する。北ほく豫よ中学校(現在の県立松山北高校)校長の加藤彰廉から高等商業学校設立の提案をうけた恒忠は、文部省との折衝を行うなど学校設立の推進者として多大じた。中学校長などを歴任し、明治42年には大阪高等商業学校(現在の大阪市立大学)の校長となる。大正4年、大阪市選出の衆議院議員に当選。帝国議会に活躍の場を移し、日本国の教育界の指導者になるだろうと思われていた翌年、一転して郷里の北豫中学校の校長に就任した。同校長には彰廉をおいて他ないと、長期に渡り説得したのは恒忠で、長次郎が援護をしたという。熱意にうたれ、彰廉はついに承諾。彰廉が華々しい中央政界から、田舎の一 中学校のために帰郷したことは市民に温かく迎えられた。な貢献をした。市長時代は1年にも満たなかったが、陸軍省とかけあって城山の払い下げに尽力したり、軍国主義につながる在郷軍人会への補助費支出に反対し、病で絶食中なのに一時間に及ぶ演説をするなど、命をかけて平和主義を貫いた。恒忠は清廉潔白な人物として有名で、公私の金をポケットの左右に分けて使うなどユニークな逸話が残っている。私人としては、人情味豊かでユーモアのセンスが光る洒しゃ脱だつな趣味人。書を愛し、硯す蒐集を趣味とした。恒忠逝去の際「松山市には過ぎたる人物。…余りにその器が大で、力量余りにも強い」という新聞論評が掲載されたという。彰廉は中学の改革に取り組むかたわら、恒忠に松山での高等商業学校設立を提案した。そして、創設と同時に校長に就き、学校の基礎を確立する。第一回卒業式において「真実・実用・忠実」を説いた訓示はその後、校訓「三実」に確立され、人間形成の伝統原理として今日に受け継がれている。当初は中学校校長も兼務していたが、責任感ゆえ自ら辞任。のちに卒業生の一人が格高こう邁まい、気品を備えられ、接するに自ら衿えりを正さずにいられない方だった」と述懐している。ずり「し瀟ょう洒しゃなる紳士、学識豊かにして人66CREATIONかとうあきかど加藤彰廉にったちょうじろう(おんざん)新田長次郎(温山)かとうつねただ(たくせん)加藤恒忠(拓川)無む私しで反は骨このCREATION 〈No.177〉 2013 Spring    っん         んつ    参考文献 : 青山淳平「明治の空-至誠の人 新田長次郎」(燃焼社)     成澤榮壽「伊藤博文を激怒させた硬骨の外交官 加藤拓川」(高文研)〜その人となり〜松山大学を築いた三恩人

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