Creation-178号
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され、それを在任中にほぼ実現させたのです。これほどの短期間で達成できたのは、拓川翁の優れた政治力と、三恩人ならびに設立発起人会メンバーの並外れた実行力によるものというほかはありません。 拓川翁は、秋山好古、原敬、西園寺公望、犬養毅、吉田茂といった時代を代表する人物からも語られています。そこで、拓川翁の生い立ちを追いながら彼らとの関係を見てゆくことにします。 拓川翁は、四国屈指の漢学を発揮されました。さらに、松山高等商業学校の設立発起人会に自らも名を連ね、加藤彰廉先生(三恩人の一人・初代校長)らとともに設立運動の中心となり、設立時には理事としても本学園の誕生に奔走されたのです。 設立の活動は、すべて市長時代の出来事ですが、新田長次郎(三恩人の一人、温山)翁などの有力者達に懇請されて市長職に就いてから病魔により辞するまでは、たったの十ヶ月間でした。この在任三百日程度の間に、「松山高等商業学校設立構想」が拓川市長に発案者・北川淳一郎氏と彰廉先生から提案 松山大学の前身「松山高等商業学校」の寄附行為(設立の基本事項を定め財産を供出する行為)が認可されて間もない大正十二(一九二三)年三月二十六日、本学園の三恩人の一人である加藤恒忠(拓川)翁は亡くなりました。本学の講義開始まであとわずか一ヶ月という日であり、まさに本学園が産声をあげるその時に、拓川翁を失ったのです。 拓川翁は、松山市長の立場から、初代校長職の人選をはじめ計画の初期段階から政治手腕設立に尽力し講義開始一ヶ月前に逝く「実に意思の強固な 男であった」 (秋山好古)拓川會編の『拓川集』は全六巻で昭和6(1931)年刊。拓川翁の日記、随筆、書簡等が纏められている。表紙の題字は、後の首相・犬養毅によるもの。拓川翁の人と業績を知る上で欠かすことのできない資料である。本学図書館で閲覧可能。(写真は筆者所有のもの)1 外交官として長く過ごした在ベルギー公使館があった場所。EU本部からすぐの公園に位置する。2 ベルギーのミッデルゲルクには拓川の別荘があった。現在は、喫茶店(上)と眼鏡店(下)となっている。3 このミッデルゲルク海岸に似た高浜海岸に晩年は移り住んだ。(昨年9月の松大GP委員会視察にて撮影)2 31 その10時代の人に語られる加藤拓川翁(一)志立大学〜松山大学の九十年〜文:法学部准教授 今村 暢好者・大原有恒(観山)の三男として安政六(一八五九)年に生まれました。秋山好古(陸軍大将の後に北予中学校長)も、拓川翁と同年に松山で生まれます。両名とも十一歳のときに藩校「明教館」に入学しています。それ以降、好古とは終生の友となるのでした。質実剛健として名高い好古は、拓川翁について次のように述べています。「加藤の一生を通じて考へると、実に意思の強固な男であった。晩年絶食絶飲して居ながらも自分のしやうことはどし〳〵遂行して行った。こゝに彼に学ぶところがある。」と。  (つづく)21CREATION 〈No.178〉 2013 Summer

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