Creation-179号
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な関係を築き、外交官として活躍するのでした。後に首相となる吉田茂も、「外務省に於いては加藤人事課長(当時)と言ふものは一つのエポック・メーキングでありました」と評価しております。 フランス公使館で代理公使であった三十五歳の時、視察中の新田長次郎(三恩人の一人、温山)翁とフランス公使館で初対面します。これが本学園設立へとつながるのでした。拓川翁は外交官として活躍の後、松山選出の衆議院議員を経て貴族院の勅選議員となり、激動の時代を駆け抜けるのです。が同じ銀行の役員になった時も、原敬は「加藤は商人に不適当だからもう一遍、役人になるのが良い」と述べ、その数年後、原敬は首相となり拓川翁を派遣特命全権大使に任ずるのでした。 外交官として歩み出した拓川翁は、ベルギーに出張し、当時ドイツとベルギーの公使であった西園寺公望(後の首相)と仕事をともにします。これ以来、西園寺公望と公私にわたり親密 加藤恒忠(拓川)翁は、十七歳のときに上京し、司法省法学校に入学しました。ここで生涯の盟友となる原敬(後の首相)と出会います。原敬らとともに拓川翁は法学校に抗議運動を起こした結果、ともに放校処分となります。その後拓川翁は仏学塾を経て、フランスの法科大学に留学するのですが、ちょうどフランス公使館で書記官となっていた原敬に推薦されて公使館勤務となるのでした。この三〇年後、二人「加藤は商人に 不適当だからもう一遍、 役人になるのが良い」(原敬)[写真上]拓川翁が高浜海岸に建てた新居「浪の家」の名を西園寺公望が揮毫した額装の書。[写真下]新田長次郎(三恩人・温山)翁が、親友の拓川翁逝去の知らせに拓川翁の夫人宛に送った書簡。三恩人の繋がりを示す貴重な資料である。1 礼服姿の拓川翁。写真はすべて正岡明氏(拓川翁の令孫)の御協力による同氏所蔵のもの。2 右が1883年(留学で渡仏する24歳)、左が1889年(外交官として欧州各地に赴く30歳)の拓川翁。3 拓川翁は、その外交官や議員等での顕著な功績から、死後に勲一等旭日大綬章が授与されている。その11時代の人に語られる加藤拓川翁(二)志立大学〜松山大学の九十年〜文:法学部准教授 今村 暢好「西園寺(公望)さんとは 余程親しくして居られた やうです」(吉田茂)2 31 原敬首相暗殺事件と同時期に、拓川翁は食道を患い始めます。拓川翁は、故郷松山に帰り市長として本学園の設立に奔走した後この世を去るのです。 拓川翁を偲び『加藤恒忠追憶座談会』が開かれ、参加者十五人の中に首相となる犬養毅、吉田茂の二名、後の外務大臣三名が含まれている事実だけでも、拓川翁の活躍ぶりと人柄を窺い知ることができます。「郷里の青年教育だけには 力を尽したい」(拓川翁)『加藤恒忠追憶座談会』に後の首相・外相たちが集う15CREATION 〈No.179〉 2013 Autumn

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