Creation-180号
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 「実用・忠実・真実」。一九二六年四月十二日発刊の松山高商新聞1面に、初代校長の加藤彰廉先生が同年三月八日の第一回卒業式席上で右「三実」を校訓として宣言したと記されています。本稿では、加藤先生にまつわるエピソードを若干紹介し、特に「忠実」にスポットを当てて考えてみたいと思います。 一つは一八九三年十一月、先生が教授を務める山口高等中学校(現山口大学経済学部)で寄宿舎事件が起こった際のことです。同校校長および先生と親交の実義務」における忠実とは「他人に忠実である」ことを意味します。しかし、先述のエピソードからも分かるように、先生にとっての「忠実」とは、「他人に忠実である」とともに、いや、それ以前に「自分自身に忠実である」ことを意味するものといえるのではないでしょうか。 一九一五年二月、先生が約二十年間勤めていた市立大阪高等商業学校(現大阪市立大学)の校長の職を辞した際に、まるで「慈父を喪ったように」、涙を流しなて北予中学校(現愛媛県立松山北高校)の校長に就任しました。松山高等商業学校の校長に就任するや否や、先生は「両校の責任を持つは老体の到底堪えざる処である」として、翌年の二月に北予中学校長を辞任しました。 加藤先生は生涯「忠実」を貫き、身をもって校訓「三実」を実践してきました。「忠実」とは、「他人に忠実である」ことを指す場合が多いです。たとえば、法人に対して理事や取締役などの執行機関が法律上負うべき「忠ある谷本富教授ら三人が事件の責任を取って辞表を提出したときに、先生も行動を共にしようとしましたが、谷本教授に固く押しとどめられ、しばらく留任することになりました。しかし、友誼に厚く、信義を重んずる先生は留任することをよしとせず、わずか数カ月後に、決然として同校を去りました。 もう一つは一九二三年三月、本学の前身である松山高等商業学校の創設に伴い、初代校長に就任するときの話です。先生は衆議院議員任期途中の一九一六年三月に、井上要・加藤恒忠・新田長次郎らの再三にわたる懇請に応じ旧市立大阪高等商業学校校庭内(跡地は現NTT西日本大阪病院)に建立された景慕碑。現在は所在不明。写真は大阪市立大学大学史資料室の提供による。参考文献:星野通編集代表『加藤彰廉先生』(昭和12年)井上要『北予中学・松山高商 楽屋ばなし』(昭和8年)『山口大学の来た道2 山口中学校から県内初の高校創立へ』http://www.yamaguchi200.jp/(平成25年12月10日)志立大学〜松山大学の九十年〜文:法学部教授 銭 偉栄学二つのエピソード加藤先生にとっての「忠実」とは何か「慈父」の如く慕われていた先生その12「忠実」を貫く教育家加藤彰廉先生がら先生の去るのを深く惜しんだ在学生らが校庭内に景慕の碑を建立し、先生をこう讃えました。 「仰瞻此碑者當知師道之尊也。師者誰。加藤君彰廉其人也。君為人溫雅寛厚。深沈淵默。謙虚容物。方正自持。不倦不厭。諄諄之誠。感孚人心。」(大意:この碑を仰ぎ見る者は、師道の尊しを知るべきだ。師たる者は誰か。加藤彰廉先生だ。先生は人となり温雅かつ寛厚、深沈かつ淵黙、謙虚かつ寛容、方正かつ自制、うまずいとわず、分かるように繰り返し教えさとすその誠は、人々の心を深く感動させた。)13CREATION 〈No.180〉 2014 Winter

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