Creation-180号
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世代を超えて語り合う それぞれの時代の “松山大学”ど(笑)。私はまだよく授業に出た方です。その一方で、自主練習にも励みましたよ。春休みも夏休みも毎日。山田 野本さんの学生時代は、今から五十数年前ですよね。どんな雰囲気だったのですか?野本会長 学生数は少なかったから、仲間意識がとても強く、教職員の方とも近い関係が築けていたと思います。県外に行っても、松山商大の先輩方が身内のように世話をしてくれました。学内にはエネルギーにあふれた男子学生が多く、今では考えられない風貌で闊歩していましたよ(笑)。山田 今は圧倒的に女子の数が増えて、男女ともにおしゃれな学生が行き交っていますよね。野本会長 私が4年間で女子学生に会ったのは3人程。それが今では女子が半数になってきて、学内もきれいになり、どこを見渡しても恥ずかしくないようになりました。山田 私が入学したのは人文学部ができる前。女友達と3人で歩いていたら、男子の視線がとても気になるような時代でしたから、本当に変わったと思います。野島さんはいかがですか?野島 私は準硬式野球部で、全国大会へ3回出場することができました。すべて1回戦で負けましたが(笑)。今でも思い出すのは、2年次での立教大学戦。1対0で負けていた9回裏の攻撃でノーアウト満塁、私は三塁走者でした。打者が打った浅いレフトフライで、周りから「ゴー! ゴー!」って聞こえて「よっしゃ、タッチアップや」と走ったらもう、あえなくアウトに。後で聞けば、それは立教の選手のかけ声だったようで…「うわぁ、やってもうた」と。あのときは大金星があげられたかもしれんかったのになぁというのを、未だに鮮明に覚えています。山田 とても残念でしたね。野島 課外活動以外にも、下宿やゼミなど多方面で友人ができましたから、夜、麻雀などをよくやりました。彼らとは今でも連絡を取り合い、年に数回、酒を飲んで馬鹿話をしています。昔を思い出しては「麻雀でもやるか」という話になって、もう仕事も忘れて…学生時代の友人は今でも“宝”です。山田 野島さんは文武両道で、授業もよく出ていらしたとか。部活動で相当忙しかったと思うのですが。野島 「とにかくノートはきちんと取ろう」ということを決め、授業には真面目に出ていました。3年次で全単位を取り、あとはゼミと卒業論文を残すのみでしたから、4年次でまた無茶をしていたわけですよ(笑)。本当にいい経験をさせてもらった、そういう時代でした。山田 磯野さんの思い出は?磯野 私は約10年前、まだ薬学部棟は建っていなかった時代です。私は会計監査委員会に所属し、新入生のお世話をする「オリター」をさせていただいたことが印象深く残っています。今でも当時の後輩たちが声をかけてくれて、とてもうれしいですね。山田 磯野さんは温山会にも積極的に参加されているそうですね。磯野 私が温山会に顔を出し始めた理由も、先輩・後輩のつながりによるもの。4~5年前、会社が営業部を立ち上げたのですが、なかなか仕事にならなくて。「この会社で営業しても駄目だ、辞めようかな」と考えていたとき、後輩が「温山会へ行ってみませんか」と誘って山田 皆さんが松山商科大学・松山大学で過ごされた日々の思い出、そして卒業し社会人になってから気づいた、大学への想いなどをお聞かせください。野本会長 当時は大変自由な校風で、表現を変えれば、破天荒な学生生活でした。所属した空手道部では、「勉強する暇があったら練習せい」と先輩に怒られていました。まぁ、冗談でしょうけ4CREATION 〈No.180〉 2014 Winter

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