Creation-181号
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三、戻れない時の中を   人は生きている  いくつもの想い出を   抱きしめながら  君よ青春の 舵を握り  自由の海へと 漕ぎ出そう   ああ 松山  松山大学 緑が歌う1928(昭和3)年、新田長次郎翁が嫡孫の利国氏のために建てたスペイン風の鉄筋コンクリート造の邸宅と広大な庭園。1989(平成元)年には新田家から寄贈を受け、本学教育研究の関西での拠点として、学生のゼミナール活動や研究会議などに利用されている。 大正初期から昭和初期にかけて、新田長次郎翁が造り上げた広大な庭園と邸宅。18000坪もの紀州路随一の広さを誇り、海からひいた池の水が潮の干満に応じて上下する。国の名勝・重要文化財に指定され、一般公開されている。※新田長次郎翁はニッタ株式会社の創業者。現在は公益財団法人琴ノ浦 温山荘園が管理・運営。学園創設の三恩人 伊予松山藩温泉郡山西村(現・松山市山西町)の出身。20歳にして志をたて大阪に旅立ち、10余年の歳月を経て日本初の動力伝動ベルトの製作に着手。至難とされた帯革製造業の確立をはじめ、膠にかわ・ゼラチン、ベニヤの製造をも手がけるなど、日本産業の発展に多大な貢献をした。 青少年を愛し学問を愛する温山翁は、高等商業学校設立の提案に賛同し、設立に際しては「学校運営に関わらない」ことを条件に、設立資金として巨額の私財を投じ、我が国の私立高等商業学校では第3番目の設置となる松山高等商業学校(本学の前身)を創設した。本学園では「学園創設の父」としてその功績が今日に伝承されている。 新にっ田た長ちょう次じ郎ろう(温おん山ざん)翁1857(安政4)年~1936(昭和11)年 伊予松山藩儒学者大原有恒(観山)の三男として生まれ、俳人正岡子規の叔父にあたる。幼くして儒学に親しみ、フランス留学を経て外務省に入り、外務大臣秘書官・大使・公使を歴任後、衆議院議員・貴族院議員に選任された。 晩年、松山市長への就任を要請され、第5代市長となり、北予中学校加藤彰廉校長からの高等商業学校設立の提案に理解を示し、文部省との設置折衝を行うと共に、友人新田長次郎翁に設立資金の支援を依頼するなど、設立運動の中心的な推進役として松山高等商業学校創設に多大な貢献をした。加か藤とう恒つね忠ただ(拓たく川せん)翁1859(安政6)年~1923(大正12)年 伊予松山藩士宮城正脩の二男として生まれ、東京大学文学部に学び西欧の新思潮を身につけた。卒業後は文部省、大蔵省在任ののち教育界に入り、山口高等中学校教授を経て大阪高等商業学校長となった。後年、要請されて北予中学校(現・県立松山北高等学校)校長に就任。高等商業学校設立をいちはやく加藤恒忠松山市長に提案するなど設立運動に尽力した。 松山高等商業学校創設に際しては、初代校長に就任し、第一回卒業式において「実用・忠実・真実」※を説いた訓示は校訓「三実」に確立され、人間形成の伝統原理として今日に受け継がれている。※現在は「真実・実用・忠実」と表記している。加か藤とう彰あき廉かど先生1861(文久1)年~1933(昭和8)年兵庫県西宮市温山記念会館(旧新田邸)和歌山県海南市琴ノ浦 温山荘園新田長次郎翁ゆかりの建造物4CREATION 〈No.181〉 2014 Spring

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