歴史社会学、帝国史、女性史、保育史を研究領域とし、特に満洲や植民地台湾・朝鮮における幼稚園・保育園の歴史を研究しています。歴史は一国を中心に描く「一国史」(ナショナルヒストリー)として語られる傾向がありますが、広大な支配地と多様な民族を統治した「帝国史」という視点を用いることで、現在の国境線にとらわれず、帝国の影響下にあった地域の実態を再考しています。日本の歴史を対象としながらも、かつて国際協力に憧れ、世界の子どもの問題に関心を持っていた経験が、帝国史・女性史・子どもの歴史といった領域横断的な研究へとつながっていったのだと思います。研究を始めた当初は、どこから手をつければよいか悩みました。しかし、長縁ではないことが明らかになりました。研究を進めるにあたり、まとまった資料が存在しないため、引揚者へのインタビューや同窓会誌、写真、日記、手記などを数多く収集してきました。最初は口を重くされていた引揚者やそのご家族も次第に心を開き、手紙や貴重な資料を提供してくださったのは非常にありがたいことです。ここ数年で引揚孤児に関する新しい資料がたくさん見つかり、そちらの研究も動き始めています。これまでの成果はいくつか著書としてまとめていますが、今後どのように社会に還元していくかは模索中です。公的記録には残りにくい女性や子どもの生活史を掘り起こすことは、私たちの現在が過去からの連続性の上にあり、未来へとつながる営みであることを気づかせてくれ、「社会は創っていくものであり、変えていけるものだ」と思えるのではないでしょうか。野県の満蒙開拓平和記念館に、満洲からの引揚者が手記を寄せていることを知り、それを手がかりに調査を始めました。さらに、引揚者の同窓会に参加したり、お話を伺える方を紹介していただいたり、足をつかって自ら資料を探しながら、研究を続けてきました。生活史を明らかにする上で、保育の歴史は重要な手がかりとなります。しかし、満洲における保育は、日本の保育史にも中国の保育史にも位置づけられておらず、研究も行われてきませんでした。そこで私は、引揚者へのインタビューや収集した資料の分析を通して、その実態に迫ろうとしています。そのなかで明らかになってきたことの一つに、保育園や幼稚園が設立された背景に違いがある、という点があります。下、満鉄)が渡満してきた多くの日本人のために、満洲各地に幼稚園を設立していました。満鉄では幼稚園と言わず、「幼児運動場」と名づけ、身体を重視した保育を整備しました。極寒の満洲で健康な子どもを育てるためです。当時、知育に偏っていた内地の保育とは対照的です。公文書には残らない女性や子どもの満洲では南満洲鉄道株式会社(以戦前の内地では「女性は家庭に」という良妻賢母像があり、夫の実家に同居し、嫁として地域や家のしきたりに合わせて生活します。ところが外地は、舅姑や親族が近くにおらず、近所づきあいも乏しい核家族です。主婦たちが時間やお金を持て余し、街を肩で風を切って歩くような態度が問題視されることもありました。そのため満鉄は、「満鉄職員の妻にふさわしい振る舞い」を身につけることを目的に「余暇善用」を掲げ、主婦が講習会に参加して教養を深めたり、副業をはじめることを奨励していたのです。保育は子どもを保護し、子どもらしい生活を保障する場としての役割と同時に、母親が余暇を充実させるための時間を確保する場所という役割も果たしていました。一方、台湾では名目上、「内台共学」を掲げたため、「日本語ができれば、日本人と同じエリートコースに進める」と考えられ、幼稚園での日本語早期教育がブームになりました。また皇民化政策としても農村部にまで国語保育園がつくられ、日本語の早期教育が推進されました。このように、日本の保育史として語られてきた歴史を、帝国日本の占領地・植民地における保育と比較していくと、共通性がある一方で大きな差異も見えてきます。内地/外地のヒエラルキーや、異なる文化を統合する過程で人々を階層化していく帝国日本の統治原理が保育と無保育の背景にある帝国の社会事情描かれてこなかった歴史を掘り起こしたい帝国史の視点で歴史を読み直す8CREATION NO.227学 術研 究引揚者ご本人やそのご家族が保管していた貴重な外地の写真や日記。当時の生活や、そこに暮らす人々の感情がリアルに伝わってくる。満洲の安東に住んでいた方々の同窓会「安東会」に足を運び、調査を実施。当時の安東の地図を見ながら、幼稚園の場所などを確認した。
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