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三恩人

新田長次郎(温山)翁

1857(安政4)年~1936(昭和11)年
 
 本学園三恩人の一人で、伊予松山藩温泉郡山西村(現・松山市山西町)の出身。20歳にして志をたて大阪に旅立ち、10余年の歳月を経て日本初の動力伝動ベルトの製作に着手し、至難とされた帯革製造業の確立を始め、膠・ゼラチン、ベニヤの製造をも手がけるなど、日本産業の発展に多大な貢献をした。
 青少年を愛し学問を愛する温山翁は、高等商業学校設立の提案に賛同し、設立に際しては、「学校運営に関わらない」ことを条件に、設立資金として巨額の私財を投じ、我が国の私立高等商業学校では第3番目の設置となる松山高等商業学校(本学の前身)を創設した。
 本学園では「学園創設の父」としてその功績が今日に伝承されている。

加藤恒忠(拓川)翁

1859(安政6)年~1923(大正12)年

本学園三恩人の一人で、伊予松山藩儒学者大原有恒(観山)の三男として生まれ、俳人正岡子規の叔父にあたる。幼くして儒学に親しみ、フランス留学を経て外務省に入り、外務大臣秘書官・大使・公使を歴任後、衆議院議員・貴族院議員に選任された。
 晩年、松山市長への就任を要請され、第5代市長となり、北予中学校加藤彰廉校長からの高等商業学校設立の提案に理解を示し、文部省との設置折衝を行うと共に、友人新田長次郎(温山)翁に設立資金の支援を依頼するなど、設立運動の中心的な推進役として松山高等商業学校創設に多大な貢献をした。

加藤彰廉先生

1861(文久1)年~1933(昭和8)年

本学園三恩人の一人で、伊予松山藩士宮城正脩の二男として生まれ、東京大学文学部に学び西欧の新思潮を身につけた。卒業後は文部省、大蔵省在任ののち教育界に入り、山口高等中学校教授を経て大阪高等商業学校長となった。後年、要請されて北予中学校(現・県立松山北高等学校)校長に就任し、高等商業学校設立をいちはやく加藤恒忠松山市長に提案するなど設立運動に尽力した。
 松山高等商業学校創設に際しては、初代校長に就任し、第一回卒業式において「実用・忠実・真実」*を説いた訓示は校訓「三実」に確立され、人間形成の伝統原理として今日に受け継がれている。
 * 現在は「真実・実用・忠実」と表記している。

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