クリックするとメニューが開きます
scroll
図書館

第17回松山大学図書館書評賞

受賞者<2017(平成29)年12月1日発表>

最優秀書評賞:該当者なし

該当者なし

優秀書評賞:石丸 菜々子さん(経営学部経営学科2年次生)

写楽 閉じた国の幻〔請求記号:913.6/Sh〕
著者:島田荘司 出版社:新潮社 出版年:2010

あなたは東洲斎写楽という人物をご存じだろうか。この人物は江戸時代中期にわずか10か月間のみ出現し、忽然と消え失せた、謎に満ち溢れた浮世絵師である。「写楽とは誰なのか・何なのか」この江戸時代最大の謎を作者は20年以上の歳月をかけ、小説を通して解き明かしている。
 本書は現代編と江戸編に話が分かれている。現代編では不慮の事故で息子を亡くした元大学講師である佐藤貞三が、絶望の中一枚の肉筆画をもとに写楽の正体を解き明かそうと奮闘する姿が描かれている。そして江戸編では写楽がどういう経緯で誕生したかについて、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのように錯覚するほど、当時の人々や社会の様子がリアルに描かれている。
 「東洲斎写楽とは何者であるか」この謎に多くの人が悩み、とらわれてきた。かくいう私もこの謎にとらわれた者の一人である。佐藤は肉筆画に書かれた文字から平賀源内こそ写楽ではないのか、蔦谷重三郎が写楽斎という絵師の真似をしたのではないのかなど、様々な可能性を考え、真実はあるがその真実に手の届かないもどかしさに、恋にも似た感情を抱いていた。そして一つの解釈にたどり着く。
 「なるほど、そうかもしれない」読み終わってすぐ、私はこう思った。大きな写楽の謎として、まず一つ目に当時の流行とは違う人物のよしあしをこのまま描いていること、二つ目に実在したという痕跡がないこと、そして三つ目にほかの絵師たちと違って活動期間が極端に短いことがあげられると私は考える。そして、本書ではこの三つの謎の理由がすべて納得のいく形で解釈に盛り込まれている。
 「私は写楽に興味はないから」や「歴史ものはちょっと」と思い読むことをためらう方もいるかもしれない。しかし、そういう方に私は声を大にして言いたい。「これはミステリー小説でもある」と。この時代に実際に生きていた人はもちろんもういない。したがって、何か大発見でもない限り真実がわかることはないかもしれない。だからこそ、その分だけ夢がある。想像は無限大であり、またその想像は写楽とは何なのかという謎を解く鍵になるかもしれない。本書で描かれているのは写楽の謎に関する一つの可能性である。
 写楽が好きな方や歴史が好きな方、そしてミステリー小説が好きな方にぜひ読んでいただきたい。そこのあなた、ようこそ東洲斎写楽という名のミステリーの世界へ。

審査員による講評

審査委員 薬学部教授 柴田 和彦

本の背景も含め、非常にわかり易い表現でまとめられており、全体として読みやすい構成となっている。すなわち、背景、概要、作品の魅力、批評以上の書評の構成要素がバランスよく書かれており、読書感想文と一線を画していることが明確である。そして、最後に読者にこの作品について自身をもって薦める言葉も巧に添えられており、読んでみたいと感じる内容になっている。

優秀書評賞:岩永 史佳さん(経済学部経済学科4年次生)

日本幼児史:子どもへのまなざし〔請求記号:384.5/Sh〕
著者:柴田純 出版社:吉川弘文館 出版年:2013

「七歳までは神のうち」。この本に興味を持った切欠がこの文言だった。意識せずとも色々な場面で様々な媒体から見聞きしてきた、日本の伝統的幼児観である。
 しかしこの本の中では、「七歳までは神のうち」という幼児観は本来日本の伝統的心性ではなく、近代の俗説に過ぎないとされている。ではなぜこの俗説は今尚こうも人口に膾炙しているのか。この疑問について、私は著者とは違う意見を持った。
 本の中では、柳田国男氏が最初に唱えたものであり、多くの学者らの思考停止により今に続いて通説化されたとされている。しかしこの文言は現在、学問の枠を超え多くの人に信じられている。私が思うに、この文言にはただの一俗説という事実を超えた、これを信じたいと多くの人に思わせるだけの他の魅力があったのではないだろうか。
 この文言が救うのは現代人の想像上の存在である昔の人の心などではない。寧ろ現代人の心の方をこそ、この文言は救っている、或いは慰撫しているのではないだろうか。私はそう考える。
 この本によると、かつては大人と子供の命を天秤にかけたとき、優先されるのはいつも大人の方だった。昔の大人たちは一人一人が大人であると同時に、生き延びた側の子供でもあった。歴史は勝者の物語の例に漏れず、伝統や常識はこうした大人たちが書き記し、言い伝えていった。彼らはある種無邪気に子供を蔑ろにしてきたとも言えるだろう。
 では、現代はどうだろう。子殺しは犯罪であり、育児放棄も同様である。児童労働は禁止され、子供はただ養育され手をかけられるだけの存在である。親から育ててもらえない子供も、施設等で所定の年齢まで育てられ教育を受ける。
 一方で大人は税を納める。たとえ子供を施設に預けた親が、自身の貧困ゆえにそうしたのであっても税を納め、そのお金は巡り巡って子供を育てる。現代の社会は、大人と子供を天秤にかけたとき、概ね子供を優先する仕組みになっていて、そう動いている。大人が社会に与える税や労働技術などのリソースのため子供は守られ、同時に将来のリソースを期待される。
 この天秤の左右が切り替わり、子供に対する大人の眼差しが無関心から保護に移り変わったのが、この本に倣うと、人々が自然に対する抵抗力を身につけた近代だったのではないだろうか。現代人は、蔑ろにされていく自分たちを憂い、その救いを「七歳までは神のうち」に見出したのではないだろうか。
 昔に比べ、今の社会は優れていて進んでいる。だからこそ「七歳までは神のうち」などと諦めずとも、当然のように他の命を優先してやれる。そうした、「昔の人が渋々諦めていたことを今の自分たちはできる」という優越感で、己を二の次に置かなければいけない義務と同調圧力、そうして自分もまた生きてきたという負い目を幸福だと自己暗示した。これこそが、学問の枠を超え、「七歳までは神のうち」という文言が人々に深く浸透している理由なのではないだろうか。

審査員による講評

審査委員 法学部准教授 甲斐 朋香

この一編の書評が書かれるまでに、評者の中で豊かな「知」が蓄積・熟成されていったことが窺えます。評者は本書を丹念に読み込みつつも、その主張をただ無批判に受け入れるのではなく、他の書物などから得た知見を参照しながら、評者独自の見方を打ち出しています。現代社会に対する洞察をも含んだ、大変面白い作品となりました。こうした評者の「まなざし」が、ゼミなど日頃のリアルな議論の場においても存分に活かされ、他の学生の皆さんとも共有されることを期待します。

佳作:梶田 貴弘さん(人文学部社会学科1年次生)

カエルの楽園〔請求記号:Lib/2016/か〕
著者:百田尚樹 出版社:新潮社 出版年:2016

『平和は力では保たれない。平和はただ理解し合うことで達成できるのだ』
 この言葉と共に理論物理学者のアインシュタイン氏は、平和を維持するために必要な考え方を後世に残した。本書中では「そもそも平和とは何か」という観点から、アインシュタイン氏の言葉に一石を投じる様なカエル達の物語が展開されている。
 物語のキーワードは「三戒」。この言葉はツチガエル達が住むナパージュの国で呪文のように唱えられており、カエルを信じろ、カエルと争うな、争うための力を持つな、という3要素で構成されている。作中では、三戒が世界中を平和にする素晴らしい思想としてツチガエル達に崇められあている。しかし、これには問題点がある。1つ目にツチガエルは武器を持たない為に国を攻め込まれても対抗手段がないこと、2つ目にツチガエル以外のカエルは三戒を守る義務が無いことである。そのため、この三戒という桎梏によって、ツチガエル達は凶暴なウシガエルが捕食の為にナパージュの国に近づいても為す術がないのだ。しかしながら、作中の三戒肯定派のツチガエル達は争いが起こらないという前提に基づいた上でこれを支持しているため、ある意味思考停止状態に陥っているという訳である。
 物語ではデイブレイクという特徴的なツチガエルが登場する。このカエルはナパージュの国で一番の物知りの人気者であるため、周囲のカエル達は彼の言う事をすっかり信用している。しかも、彼のインフルエンサーとしての発言力は強く、ナパージュの国で三戒の継続と破棄のどちらか一方を投票で決定する際には三戒が何故必要か、如何に争いや暴力が無益な事かを演説し、群衆を三戒継続の方向へ扇動していった。ここまで聞くとデイブレイクは恒久平和を愛する善良なカエルの様に思えるが、実を言うと彼は善人の仮面を被ったカエルなのだ。なぜなら、彼はその影響力の強さを利用して毎日ハス沼の集会で嫌いなカエルの悪口を言い続けることで世論を思うが儘に誘導し、他の反デイブレイク派のカエルを委縮させる、半ば言論弾圧の様な振る舞いをとるためだ。その上、彼はナパージュの国のツチガエルにもかかわらず、ナパージュの悪口が大好きでナパージュのカエルを貶めるためならどんな嘘だってつく質の悪いカエルなのだ。
 つまるところ、私は本書中にて著者が伝えたかったことは「行き過ぎた慣例主義はときに私達を苦しめる」「周囲に流されない確固たる意志を持つべき」という、この2点であると考える。状況に応じて臨機応変に対応することや主体性を持つことは、複雑多岐な現代社会を生きる大学生には必須のスキルだと思う。私はそれをこの本から学ぶことが出来た。皆さんにはぜひ『カエルの楽園』を読んで、三戒をめぐるカエル達の行動はどこが正しく、どこが間違っていたのかを周囲の友人や家族と論議して頂きたいと思う。

審査員による講評

審査委員 経済学部准教授 井草 剛

百田尚樹氏の「カエルの楽園」の感想を端的に縦横無尽に語っている。この書評は「平和ボケしてる日本人に警鐘を鳴らしている」のだと間接的に感じた。また慣例を改めて考えることの重要性やその楽しさを1200 以内という狭いリングの中で理論的に、また感情的に余すことなく語ってくれている。私たちが、「ある種の画一化」を受け入れてはいけないことの重要性がリアルに伝わってくる。

佳作:形山 菜摘さん(経営学部経営学科4年次生)

はじめての短歌〔請求記号:Lib/2016/は〕
著者:穂村弘 出版社:河出書房新社 出版年:2016

本書は歌人・穂村弘による、社会人向けワークショップで行われた講義をまとめたものである。効率重視でバリバリ働くビジネスマンのような、短歌に馴染みのない大人たちにプレゼンテーションしていく一冊だ。「はじめての短歌」というタイトルであるが、文法や韻律を解説した短歌入門書ではない。日常生活で使う言葉と短歌で使う言葉にはどのような違いがあるのか、具体例を挙げて説明している。
 説明には、色々な歌人の良い短歌をわざと改悪する手法をとっており、どこがポイントなのかわかりやすい。「空き巣でも入ったのかと思うほどわたしの部屋はそういう状態」(作・平岡あみ)に対して、「空き巣でも入ったのかと思うほどわたしの部屋は散らかっている」と改悪例を並べたページから本文が始まる。社会的に優れているのは、正確に情報を伝えている改悪例の方である。私たちがレポートやエントリーシートを書くときに指導されたように、ビジネス文書などの社会的な場面では誰にでも確実に意味が伝わる言葉を使うべきだ。しかし短歌での価値は違う。「散らかっている」という言葉のラベルを貼ってしまうと、感情や想像が働かなくなる、と著者は解説する。「そういう状態」にはイメージの余地があり、人の心を動かすのである。このように例を挙げながら、短歌とはどういうものか学べるようになっている。
 本書で頻出するのが「生きのびる」と「生きる」という対比だ。人は生きるために存在しているのに、生きのびないと生きることができない、二重の世界を持っている。「生きのびる」ために必要なのは、誰もが「ないと困る」と思うものだと著者は述べている。食事、睡眠、目が悪ければコンタクトレンズ。誰にでも共通することで、「生きのびる」には社会性がある。一方「生きる」ためにはと問われると人それぞれだ。「生きる」理由や目標は個人的であり、答えるのが難しい。私は本書を読み、人には「散らかっている」と「そういう状態」のどちらの言葉も必要だと感じた。「散らかっている」は「生きのびる」側の言葉であり、便利な社会を成立させている。そして自分が唯一無二の自分であるために「そういう状態」という「生きる」側の言葉も私たちには必要なのではないか。
 小学校から大学まで、社会的に正しい文章の書き方を教育されてきた。現代の世の中は、「生きのびる」ためのツールが充実している。しかし「生きる」ことを大切にできていないのかもしれない。本書を読むことで、言葉に対して新しい視点を持てる。「生きる」ためには短歌があると気付かせてくれるのだ。

審査員による講評

審査委員 法学部准教授 甲斐 朋香

現代短歌の旗手のひとりである穂村弘。若者の活字離れが憂慮される昨今、その著作を手に取り、さらには他人にも紹介したいと文章を練る学生がいること自体、喜びのひとつだと言えます。「生きる」ためのことばを自らの裡に持つことは、「生きのびる」ことをもほんの少しだけ容易にしてくれるのではないでしょうか。「小学校から大学まで、社会的に正しい文章の書き方」に偏重した教育がなされ、「『生きのびる』ためのツールが充実している」現代の世の中で、「生きる」ことの大切さ、「生きる」ためのことばの大切さを、分かりやすく明快な書きぶりで訴えた評者のこれからに期待したいと思います。

佳作:丹 萌美さん(人文学部社会学科1年次生)

みずうみの歌〔請求記号:913.6/Ho〕
著者:ほしおさなえ 出版社:講談社 出版年:2013

「そんなものじゃない。大切な人がなくなるって、そういうことじゃない。」 主人公のサカナは水泳が得意な少年。祖父母はすでに他界しており、父親は誰かも知らない。そんな中、高2の春に彼の中で唯一だった母が、病気で死んだ。遺品の整理中に見つけたのは最終話だけがない小説『ピルグリム』と一枚の白黒写真。そこに映っていたのは、高校時代の母だった。
 子どもの世話に追われ、病気になって死んでいった母は幸せだったのだろうか。母はなんのために生きていたのだろうか。サカナは母の思い出を探すため、夏休みに母の故郷を訪れる。しかし、その町は土地が陥没し、一部が湖の下に沈んでしまっていた。
 そこでサカナは、名前と過去を捨て、湖に水没したものを回収している男モグリや、人の心に残るために夢を追い続ける少女芽衣、妻の死を受け入れられず、妻が生きているもう一つの世界に行こうとする作家、佐島と出会う。
 各々の胸の内が交錯し、過去と現在がリンクし、サカナは母の想いや父の正体を知っていく。
 湖に沈んだ町、という独特の場を舞台に、どこか幻想的な雰囲気を放ちつつも寂寥さを感じさせるこの本は、死ぬということ、生きるということについて静かに語りかけてくる。人が生きる意味とは何なのか。夢とは、人生とは、何なのだろうか。
 そこでふと、今までの自分を振り返ってみた。私は、誰かが作ってくれた安全な道をただ何となく歩いてきただけのように思う。ただ、流されて生きてきた。どうして、何のために生きているのかと問われても、私は答えられない。己の人生について、今一度考えるきっかけとなった。
 「僕たちはただ、いまここで生きるしかないんだ」
 まさにその通りだと思った。「世の中に悲しいことなんてたくさんある」のだ。何が起ころうと、空の青さは変わらない。悲劇に遭遇するたび、それをなかったことすることはできない。しかし、私は嫌なことがあるとすぐに目を逸らしてしまいがちだ。作者は、現実と向き合うことの難しさと大切さを伝えたかったのではないだろうか。この本を読み終わったとき、今まで逃げ続けていた自分を、私は素直に反省した。そのままでは前に進めないと、この本は教えてくれた。現実と向き合う。簡単そうに聞こえて、存外難しいことである。乗り越えられなくてもいい、絶望してもいい、立ち止まってもいい。ただ、なかったことにしてしまってはいけないと、強く訴えているように思う。悲しみや後悔、どんな負の思い出も、心に刻み生きていく。人間とは、きっとそれができる強さをもった生き物なのだ。湖の底で時が止まったままの町。しかし、私たちの時間が止まることはない。時が流れれば人はみな死に向かうが、生きるとは、つまりそういうことなのではないだろうか。「今」を生きていることを再確認させられる一冊である。

審査員による講評

審査委員 経済学部准教授 井草 剛

母親と死別した主人公が母親の持っていた雑誌に載っている母の故郷で母のルーツや面影をさがす物語。この書評は、この作品がSFにファンタジー、ミステリーと青春的要素を詰め込んで読み応えがあることを十二分に読者に伝わらせている。

佳作:仲田 知弘さん(短期大学商科第二部1年次生)

エルニーニョ〔請求記号:913.6/Na〕
著者:中島京子 出版社:講談社 出版年:2010

童謡「森のくまさん」を聴いた頃を思い出せるだろうか。きっと小さい頃に聴いた記憶が思い浮かんだのではないだろうか?さて、どういう解釈をして聴いていたか思い返してもらいたい。きっと大多数の人が深く考える事なく純粋に聴いていただろう。本書においては少し違った解釈をしており、主人公である大学生の瑛(テル)が人生最大の賭けをするきっかけとなる重要な曲である。
瑛がした賭けとは「逃げ」だ。同居していた彼氏のDVから、そして過去の自分からも逃げて南の方へと逃げた。偶然泊まったホテルの留守番電話に残されたメッセージを頼りに逃げたのだ。そこで出会った「ニノ」という7歳の男の子。ニノもまた瑛と同じく逃げていた。
 「逃げる」という共通点を持った二人は、潜在的には逃げ続けるわけにはいかないと分かっていながらも、穏やかな日々を過ごしていた。まるで歳の離れた姉弟のようでお互い居心地が良かったのだ。そんな日々は夏の終わりと同じ様に刻々と変化していく事となり、得体の知れない状況に振り回されていく。
 この本を読んだのはうろ覚えだが、確か中学生の頃だった。現実逃避が出来れば何でもよかったと言えば投げやりに聞こえるかもしれないが、本を読み続けていた。物理的かどうかはさておき、瑛やニノと同じく私も逃げていたのだ。本書はそれを肯定してくれているように思えて物語に逃げ込んだ。主人公と状況は一致しなくとも、逃げられない代わりに逃げてもらっていた。あれから何年も経ち、本校の図書館で全くジャンル違いの本を探していた時、何万冊もある本の中から偶然見つけたのだ。当時の状況をページをめくるごとに思い出し、あの頃思い描いた状況とは全く違っていた事をも突きつけてきた。本に染み込んだ記憶というものは時として助けにも、残酷にもなるのだ。
 逃げていた瑛とニノの身に一夏の間に目まぐるしく起きた出来事はきっと誰もが経験する事では無いだろう。しかし、そんな二人を取り巻く感情はきっとほんの少しであっても重なる部分があるのではないだろうか。
 本書を読み切った後、きっと「森のくまさん」に対するイメージはひっくり返されている事だろう。瑛と同年代である今の私たちだからこそ重なり、感情移入できるであろう今だからこそ読んでほしい1冊である。

審査員による講評

審査委員 経済学部准教授 井草 剛

この書評は、森のくまさんの「お嬢さんお逃げなさい」の通説を確かめたくなるよう巧妙に書かれている。DVから逃げるテル、灰色の男から逃げるニノ。この本の二人の絆の静かな話と書評作者の体験がクロスするなんだか気持ちのいい書評となっている。

佳作:六車 日菜子さん(経済学部経済学科3年次生)

人工知能と経済の未来:2030年雇用大崩壊〔請求記号:081/B6/1091〕
著者:井上智洋 出版社:文藝春秋 出版年:2016

人工知能(AI)は我々人間の救世主になり得るのだろうか。そんな疑問を抱えてこの本を開いた。答えはイエスであり、ノーであるようだ。
 著者はこう予測する。「第四次産業革命は、あらたなGPTである汎用AI・ロボットが引き起こす革命で、それは、2030年くらいから進展し、2045年くらいにはおよその純粋機械化経済の形を作り上げる」と。
 2045年。それはAIが全人類の知性を超えるとき――シンギュラリティの到来であるといわれている。人類はそのときを以て世界の覇権をコンピューターへ明け渡すことになるだろう。効率化した機械のみが直接の生産活動を担うようになると、生産力の爆発的な上昇と引き換えに労働者は消え、やがて資本主義経済は死に至る。すべてがオートメーション化された「純粋機械化経済」が始まるのだ。技術進歩は常に経済成長をもたらす一方で労働を節約し雇用を減らしてきたが、第四次産業革命においては、それがあまりに顕著であるようだ。
 雇用の喪失を恐れAIの導入を拒んだ国は、経済成長に関して他国に大きな後れをとることになる。ちょうど第一次産業革命時に、蒸気機関による機械的生産を導入した欧米諸国と、導入しなかったアジア・アフリカ地域の間で経済成長の大分岐があったように。
 では、順調に機械が人間の雇用を奪っていった先で、所得を失った全ての労働者は飢えて死んでいくしかないのか。否。「AIの発達の末に訪れるはずの途方もなく実り豊かな経済の恩恵を、一部の人ではなく全ての人々が享受できるよう」な手段を、著者は本書を通して我々に提言する。
 本書では、人工知能の発達が経済構造をどのように変化させ、経済成長や雇用にいかなる影響を及ぼすかについて、かなり重厚な議論が展開されている。人工知能の進化をさまざまな視点から捉え大胆に今後を予測した第2章、俯瞰的な現状分析のもと雇用の喪失と経済成長の見通しを記した第3章など、著者の広範な視点は最後まで読み手を飽きさせない。最終章では、それまでの現状分析と今後の経済動向の予測を踏まえた上で納得の解決策が提示されており、何度も膝を打ちながら読んだ。内容についてはぜひ第5章を読んでほしい。
 汎用AIが次々と人間に取って代わり、労働で所得を得ることが普通でない時代は遅かれ早かれやってくるだろう。こうして本を読み書評を書く私もやがてAIで事足りるようになるのかもしれない。しかしそういった時代の変化を楽しめる者が、これからの未知なる人工知能の時代を生き抜いていくのだろう。新たな時代を見据える若者にこそ読んでほしい一冊である。

審査員による講評

審査委員 法学部准教授 甲斐 朋香

人工知能=AIはどこまで進化するのだろうか。その進化は、私達の社会にどのような変化をもたらすのだろうか―きわめて今日的なトピックを扱った本書を取り上げ、レトリックを効果的に使いながら、読書にいざないます。魅力的な書評を書くためには、その元となる本の中身をただ通りいっぺんになぞるだけでなく、きちんと腑に落ちるまで読み込む必要があります。そうした作業をしたことが窺える一編です。理知的で明晰な筆致も魅力のひとつといえるでしょう。

審査員による全体講評

審査委員長 薬学部教授 柴田 和彦

今年度の書評賞への応募件数は、昨年(24編)より若干多く27編であり、さらなる増加を期待したい。入選作品については、最優秀賞の該当者はなく、優秀賞2編、佳作5編の合計7編となった。今回審査委員のメンバー3名で慎重に審議した結果、残念ながら3人の審査委員全員が一致して高く評価された作品はなかった。
書評の対象となった作品のジャンルは時代を反映したものから歴史物など幅広い分野にわたっていた。このことは応募者が、特定の領域に偏ることなく、さまざまな領域に興味をもって書物を読んでいることがうかがえた。
 今回の作品の印象として、全体としてまとまった内容のものが多かったように感じる。その一方で、例年指摘されることであるが、読書感想文的な内容の作品も散見された。ここで今一度、書評を書く際の心構えを述べておく。基本は、ある本の魅力を読者へ伝えることである。そして、その本の魅力を伝えるとき、ただ「感動した」「面白かった」だけでは書評とはならないことを認識することが必要である。どのように感動したか、何が面白かったかを具体的な言葉として表現する必要もある。そして、最も重要な点は、書評者による批評が述べられていることである。この点が、読書感想文と書評の大きな違いである。今回の作品にも、あと少しの注意力、もう一歩踏み込んだ考察力があれば、入賞したかもしれないものもみられた。そのなかで「興味が沸く」「読んでみたい」と感じられた作品が今回の受賞の対象となっている。
基本的な文章表現や使用語句についても注意してほしい。作品のなかには、誤字、脱字が散見されるもの、また段落、句読点が不適切なものなどが見られた。内容がまとまっていても、文章的に稚拙に見られることを認識してほしい。あらすじを書きすぎて内容がほとんどわかってしまうものや内容の羅列、引用が多すぎる作品も見られた。
 書評を書く力を培う方法は、やはり、本を精読する習慣を身につけることが第一である。そして、その本について自分なりに評価してみることである。そのためにも、本学の読書環境をぜひとも活用してほしい。
 松山大学図書館が主催している「書評の書き方教室」の参加者は、昨年度は75名であったが、今年度はわずか18名の参加者とのことで、かなり減少していた。今後は当該教室への参加をより一層促し、書評への関心を持たせることが必要である。
 最後に、書評に興味がある学生諸君には、今回受賞した書評ならびに対象となった作品をぜひ精読してもらいたいと思う。

このページに関するお問合せは下記までお寄せください。
図書館事務部情報サービス課
電話
089-926-7208
PAGE TOP